吉岡学長(立教大学総長)による式辞
立教セカンドステージ大学修了生の皆さんへ(2015年度修了式)
2016年3月22日
立教大学総長
立教セカンドステージ大学学長
吉岡知哉
立教セカンドステージ大学は本日、本科第8期生92名、専攻科第7期生44名に、「立教セカンドステージ大学修了証書」を授与いたします。
修了生の皆さん、おめでとうございます。
心よりお祝いを申し上げます。
セカンドステージ大学で学ぶ皆さんの中にはご存知の方も多いと思いますが、戦後活躍した作家に花田清輝という人がいました。文芸や映画の評論家で戯曲も書いているので、通常の作家というカテゴリーには収まらない人物です。
花田清輝の代表作の一つが、『復興期の精神』*という作品です。「女の論理 ダンテ」、「鏡のなかの言葉 レオナルド」というように、標題のもとにヨーロッパの著名な作家、思想家、芸術家の名前を配した、22の章からなる書物ですが、その内容は、評伝ともエッセーとも短編小説とも言えるし、そのどれでもないとも言えるものです。
では『復興期の精神』はどのような書物であるのか。
この問いに対する唯一の答えは、「実際に読んでみてください」というものです。
この書物の最大の特徴は、それがどのような書物であるのか、そこになにが書かれているのかということを、ここに書かれていることば以外のことばで、あらわすことが、全くと言って良いかどうかはわかりませんが、不可能である、という点にあります。
先ほど述べたように、各文章には標題が掲げられていますが、その標題は、そこに書かれた文章のテーマを正確に表わしているとは言えません。
また、タイトルに挙げられている人物について、分析をしたりなにか歴史的事実を述べたりするわけでもありませんし、著者が明確な評価をくだすこともありません。
しかし、全体を読んでいくと、この書物が書物として扱っている問題が見えてきます。
この書物に含まれている文章の多くは、戦時中、1941年から43年の間に雑誌に発表されたもので、戦後に文章がひとつ加えられて、1946年に書物として出版されました。
著者はあとがきに次のように書いています。
「戦争中、私は少々しゃれた仕事をしてみたいと思った。そこで率直な良心派のなかにまじって、たくみにレトリックを使いながら、この一聯のエッセイを書いた。良心派は捕縛されたが、私は完全に無視された。いまとなっては、殉教者面ができないのが残念でたまらない。思うに、いささかたくみにレトリックを使いすぎたのである。」(「初版跋」p.212)
著者は、「各エッセイは、それぞれ、一応、独立してはいるが、互いにもつれあい、からみあって、ひとつの主題の展開に役立っているにすぎない」と言います。続けて引用します。
「その主題というのは、ひと口にいえば、転形期にいかに生きるか、ということだ。したがって、ここではルネッサンスについて語られてはいるが、私の眼は、つねに二十世紀の現実に、−−−そうして、今日の日本の現実にそそがれていた。そのような生まなましい現実の姿が、いくらかでもこのエッセイのなかに捉えられていれば、うれしい次第だ。」(pp.212~213.)(「転形期」は、形が転じる時期、と書きます。)
レトリックを駆使し、ことばによって精緻に組み立てられた構築物を一言で表現するということは、それ自体が矛盾した作業でしょうが、『復興期の精神』のなかには、繰り返し提示される主題、あるいはイメージがあります。それが、楕円です。
花田清輝は、ただ一つの中心を持つ円に対して、2つの焦点を持つ楕円という図形を対置します。花田清輝が作品の舞台として選んだルネサンスは、中世と近世、国家と教会、カトリックとプロテスタント、ユートピアと現実、過去と現在、死と再生が2つながら存在する、巨大な転換の時代です。そして、そこに登場する人物たちは、それら2つの焦点の存在を確かに自覚し、その2つの焦点からの距離の和が一定となるように、楕円の軌跡を描いていくのです。
戦時下にあって、このように描き出された2つの焦点を持つ楕円の世界は、それ自体が、唯一の中心を持ち、すべての価値がその中心に集まる天皇制国家に対する批判であったと言って良いでしょう。
しかし、『復興期の精神』が焦点をあてて扱っているのはあくまでもヨーロッパの文化であり、もう一つの焦点である日本は、隠されたままです。文章は大きく楕円軌道を描き、著者の意図なるものが表に曝されることはありません。著者が捕縛されることはなかったのです。
楕円について、花田清輝は次のように書いています。
「いうまでもなく楕円は、焦点の位置次第で、無限に円に近づくこともできれば、直線に近づくこともできようが、その形がいかに変化しようとも、依然として、楕円が楕円である限り、それは、醒めながら眠り、眠りながら醒め、泣きながら笑い、笑いながら泣き、信じながら疑い、疑いながら信ずることを意味する。これが曖昧であり、なにか有り得べからざるもののように思われ、しかも、みにくい印象を君にあたえるとすれば、それは君が、いまもなお、円の亡霊に憑かれているためであろう。焦点こそ2つあるが、楕円は、円とおなじく、1つの中心と、明確な輪郭をもつ堂々たる図形であり、円は、むしろ、楕円のなかのきわめて特殊のばあい、−−−すなわち、その短径と長径とがひとしいばあいに過ぎず、楕円のほうが、円よりも、はるかに一般的な存在であるともいえる。ギリシア人は単純な調和を愛したから、円をうつくしいと感じたでもあろうが、矛盾しているにも拘らず調和している、楕円の複雑な調和のほうが、我々にとっては、いっそう、うつくしいはずではなかろうか。」(「楕円幻想」p.187)
さて、私は花田清輝のようなレトリックの技術を持ち合わせていませんので、本日の修了証書授与式に『復興期の精神』を取り上げようと考えた理由をここで述べておきます。
第1に、私たちが生きている現在は、新たな「転形期」です。情報通信技術の進歩とグローバリゼーションの爆発的展開によって、世界は文字通り急激に、均質で単調なものへと形を変えつつあります。「転形期にいかに生きるか」という花田清輝の問題設定は、なお生々しい力を持っています。
第2に、一つの中心を持つ真円への欲求は、近年ますます強まってきていると思われます。自らを円の中心に置きたいという欲望は、自分の価値を中心からの距離によって図ろうとする欲望と対をなしています。このような欲求とは異なる思考の形態を探ることは、喫緊の課題であると考えます。
第3に、立教セカンドステージ大学で学んできた皆さんは、入学以前に50年以上の人生を送っており、その経験を第1の焦点とするならば、セカンドステージ大学が、第2の焦点です。この2つの焦点をめぐる楕円軌道の一環として「いかに生きるか」を考えてみることができるのではないかと思います。
あらためてお祝いを申し上げます。
立教セカンドステージ大学修了、おめでとうございます。
[*]花田清輝『復興期の精神』(1974年)講談社文庫