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吉岡学長(立教大学総長)による式辞

立教セカンドステージ大学新入生の皆さんへ(2013年度入学式)

2013年4月3日
立教大学総長
立教セカンドステージ大学学長
吉岡知哉


立教セカンドステージ大学はこの春、本科6期生100名、専攻科5期生52名の新入生を迎え入れます。
新入生の皆さん、入学おめでとうございます。

立教セカンドステージ大学は、入学条件として50歳以上という年齢制限をかけています。したがって、ここに列席しておられるほとんどすべての方々は、大学の外部の社会で30年以上、人によっては、40年、50年という年月を過ごしてきた経験を持っていることになります。きわめて多様な経験を持った方々が、大学で学ぶという共通の目的のために、今ここに集うことになりました。このこと自体、希有なことであると言わなければなりません。

皆さんは社会人として大学の外の社会にいたときに、大学をどのようなものとして見ていたのでしょうか。
皆さんは、セカンドステージ大学への入学を志望し、現在この入学式に出席しているのですから、大学に対してネガティブな感情や考えを持っているわけではないと思います。けれども大学という組織に対しては、何らかの違和感を感じていたのではないでしょうか。私は、ぜひ、その違和感を大切にしていただきたいと思っています。
セカンドステージ大学の意義の一つは、自分がこれまで辿ってきた経験を再度辿り直し、自分という存在が何者であるのか、そして自分が生きてきた歴史が何であるのかを知ることにあります。新しい環境に置かれたときに感じる齟齬の感覚は、自分のこれまでの経験を対象化し、それを言語化するために不可欠のものなのです。

大学はもちろん、それ自体が一つの社会組織であり、社会の構成要素です。けれども同時に、社会の中にありながら、その時々の社会の支配的な原理とは異なる存立根拠を維持しています。その存立根拠とはなにか。
それは、大学は、学び、問い、考える場所だということです。あえて言えば、大学は、学び問い考えることによって生じる結果や成果ではなく、学び問い考えることそれ自体によって存立している存在です。しばしば、大学で教わることは、個々の知識ではなく、学び問い考えるための方法だと言われるのもそのためです。

学び問い考えるためには、自由が無ければなりません。徹底的に学び問い考えるためには、無条件の自由、絶対的な自由が必要です。
自由がなければ、人間は、学ぶことも、問うことも、考えることもできません。言い換えれば、大学の自由は、学び問い考える自由に他ならないのです。

社会は一定の効率を求めます。特に、近代以降の社会は、効率を最優先する社会です。けれども、学び問い考えるためには、そもそも時間がかかります。研究・教育という営みは、速度に還元できるものでありません。大学の中に流れる時間は、社会とりわけ企業の時間とはしばしば全く異なるのです。

また、大学は、学び問い考える人によって構成されています。そこでは、人は、学び問い考える存在であるという点において平等なのです。

このような組織が、社会と一定の齟齬を来すのはそもそも当然のことだと言わなければなりません。けれども、大学は社会にとって必要な存在であり、その重要性はますます増大しています。それは、いわゆる人材育成のためだけではありません。
社会の進歩は、一方で社会の均質化や制度の固定化を生み、社会自体の活力を失わせて行く可能性があります。その中で、その時々の社会の支配的な原理とは異なる要素を持ち、異なる時間を内包するのが大学です。大学とはまさに、社会が自らの存続と更新のために、自らの中に埋め込んだ異物なのです。
21世紀になって、社会の変化のスピードが加速し、社会に余裕がなくなるにつれて、大学には既存の社会と同様の価値観と効率性が求められるようになってきました。それがどういうことであるのか。そのこと自体をも大学は考えなければなりません。
大学の外の社会を長く経験してきた皆さんには、ぜひ、大学に対しては良き批判者として、そして大学の外に対しては、大学の擁護者となっていただきたいと願っています。

新入生の皆さん
立教セカンドステージへの入学にあたって、皆さんは未知の領域への好奇心に胸を膨らませ、学びへの意志を強く確認しておられると思います。
学ぶという営みは、自己の内部に複数の他者を導き入れる作業です。そのためには、自分が変化していく能力を持たなければなりません。社会での長い経験は、学びのための多くの入り口を開きますが、同時に、自己の変容の際の桎梏にもなりえます。どうか柔軟な思考力を鍛えてください。

17世紀の思想家、トマス・ホッブズが、主著『リヴァイアサン』のなかで、好奇心curiosityについて興味深い定義を与えています。

「なぜ、いかにして 、ということを知ろうとする「欲求」が、「好奇心」である。これは「人間」以外のいかなる生物のなかにも存在しない。したがって、人間は、理性を持つことによってだけではなく、この特異な情念を持つことによっても、他の「動物」からは区別されている。動物においては、食欲やその他の感覚上の快楽が支配的であるために、原因を知ろうとする関心はどこかへ行ってしまう。このような関心は心の情欲であり、継続的にかつ飽きることなく知識を生み出す際の絶え間ない歓喜によって、いかなる肉の快楽の、短時間の激しさをも超えるものである。」(Thomas Hobbes, Leviathan, Part 1, Chapter 6)

動物に好奇心が無いかどうか、疑問を呈する方もいらっしゃるかもしれませんが、「なぜ、いかにしてwhy and how」を原因にまで遡って検討したいという強い欲望は、確かに人間に固有のものであるように思われます。
皆さんもどうか、好奇心を持続させて、学ぶことの歓喜を味わってください。

入学おめでとうございます。

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