私は、学生時代より一貫して科学の世界で生きてきました。そのため、科学が発展してきた歴史に興味を持っておりますが、科学史では強烈な個性を持った頑固者が時折登場します。20世紀初頭、高名な実験物理学者であったマッハは、実験的に実証されていない仮定による形而上学的概念を一切認めず、当時実験的に存在が実証されていなかった原子の存在を生涯認めませんでした。因みに当時は、原子内に電子が存在することすらすでに発見されていた時代です。また、アインシュタインも晩年相当な頑固ジジイで、現代物理学の柱の1つである量子力学を生涯認めませんでした。しかし、このような頑固者の存在はある意味科学の発展に重要な役割を果たし、マッハの反原子論はアインシュタインらによる原子の存在を実証する研究の契機となり、アインシュタインの反量子論は量子力学の精密化を促しました。頭の固い頑固者は単なる困りものですが、知性に裏打ちされた柔軟な思考を持った頑固ジジイ(ババア)は社会の発展に不可欠なのかもしれません。RSSCでの学びで知性と柔軟な思考を鍛えた、若者にとって容易には越えがたい障壁となる頑固者が輩出されたらいいなと思っています。
私の専門領域は生涯発達心理学および青年心理学です。セカンドステージ大学では本科ゼミと、「生きがいの生涯発達心理学」の講義を担当しています。これまでは学生や大学院生を対象に青年期の心理学を講義していましたが、セカンドステージ大学を担当することになってから、生涯発達心理学の中でシニアはどのように位置づけられるのか、人格発達におけるテーマや問題は何なのかという問い直しと、講義内容の組み替えを行ってきました。受講生からは「これまで競争原理一辺倒の社会の中で生きてきたが、セカンドステージで学び直して、新たな価値観に気づくことができた」などの感想をいただいています。また、青年心理学研究と並行して伝記分析の手法を用いて、さまざまな人物の生涯についても研究してきました。波乱万丈の人生の中に見える生きる意味、生きがい、人生のテーマなどについてお話しできるかと思います。みなさんと共に学び合えることを楽しみにしています。
私は2025年度から立教セカンドステージ大学(以下RSSCと書きます)を担当しています。専門分野は途上国の経済開発を分析する開発経済学というものですが、その扱う領域は、経済の範囲を超えて、政治、社会、文化など幅広い領域を網羅しています。
RSSCに入学する動機は人それぞれでしょうが、入学後は修了論文をまとめるという目的は皆さん一緒です。そのテーマを聞いていると、私も知らない分野、考えたこともない分野に出会い、大きな刺激を得ます。RSSCとはそのような刺激をうけ、与えあう場ではないかと思います。
その刺激の先に何が待っているのかは、人それぞれです。ですが、その刺激は今までの人生では味わったことのないモノです。そう考えると、RSSCでの1年間は大変貴重で有意義な時間・機会になるでしょう。私自身1週間RSSCの授業が来るのが待ち遠しくてなりません。この刺激を一人でも多くの方に味わっていただきたいものです。
日常とは異なる土地に出かけ、いつも周囲にいる人びととは違う人びとと接するフィールドワークが、私の専攻している文化人類学では必須です。これは楽しいことばかりではありませんが、それでも楽しいこと、興味関心をひかれること、いままでの妄執を反省せざるを得ないことに出会うことのほうが多くあります。フィールドワークをすすめていくことは、周囲のことを安全地帯から観察することではありません。周囲の人も、フィールドワークのためにやって来た人のことを知りたいと思うし、フィールドワークする人は周囲の影響で変化していきます。
フィールドワークは文化人類学を専攻している者だけが独占しているわけではありません。異なるものとの接触は、遠隔地に行かなくても、日常の中でも可能かもしれません。RSSCのゼミの場も十分に可能性を秘めた場になるでしょう。異なるものと接触する大きな楽しみとちょっとした苦しみを皆さんと共有したいと思います。
人生の後半になりますと、半生を振り返ってその意味を確かめたいと思うものです。これまでの人生行路の途上で経験したことを自分なりに評価したり、そこから今後に向けた教訓を得たりすることもあるでしょう。そのときに大切なのは評価の基準です。そのときに確かな基準を見極めるために哲学という学問があります。その基本的な方法のひとつとして「対話」を挙げることができます。古代ギリシャの哲学者ソクラテスは生涯を対話に捧げました。それによって参加者全員がより普遍的な真実に近づくことが出来るからです。ゼミナールではひとりひとりのテーマをいつも全員で考え、まとめ上げてゆきます。多方面から多様な可能性を検討して、対立を超えてより真実に近い一つの考えにまとめてゆく過程は、全員でより確かな基準を創ってゆくことでもあります。哲学には2500年の蓄積がありますが、それらを駆使して皆さんの基準作りの共同作業のお手伝いをして参ります。
ゼミナールを担当してみて分かったこと、それは如実に「時代」が見えるということです。受講者の皆さんの意欲的な研究テーマは、それぞれに個性的で同じものはないにもかかわらず、現在における危機意識の共有、そしてこれからの社会のありかたへの真摯な問いかけが含まれていて、どんなアンケートよりも正確な現代社会の地図が描けるような、そんな印象です。それぞれの生活や職業など多様な経験からまっすぐに事態を見据えようとする姿勢は、確かな視座の存在を感じさせ、これこそがセカンド・ステージの強みなのだと理解しました。
「精密な受信機はふえてゆくばかりなのに/世界のできごとは一日でわかるのに/
“知らないことが多すぎる”/とあなたにだけは告げてみたい」(「知らないことが」)、とかつて茨木のり子という詩人が書いていました。私もまたみずからに告げてみたいと思います。「知らないことが多すぎる」と。
昨年(2024年)度からセカンドステージ大学(RSSC)の本科ゼミナールを担当しております。初めはすべて“手探り”状態だったのですが、受講生が私自身とだいたい同年配の方々であることにより、多くの学びを得ました。それぞれの方が異業種でキャリアを積んだ背景の持ち主であり、授業内の対話からだけでも多くの刺激をもらえます。2年目の今年は、ゼミ授業の全体を通してこうした「学び合い」の観点を強く意識しながら運営していきたいと思っています。
私は福祉社会学や地域コミュニティ研究等を専攻してきましたが、その一環でかつて「高齢者の生きがい」に関する共同研究に従事したことがあります。当時30歳代だった自分自身が「高齢者」の仲間入りをした今、当事者の一人として「生きがい」についても改めて考えながら、RSSCでの「学び合い」を楽しみたいと思います。
大学教員になってから学生たちに接して感じたことは、高校までの理系教育は一市民として健康に安全に生きていくために必要な最小限の栄養学や医学に関するリテラシーを育んでいないということでした。全学共通科目を担当するようになってから、学生たちが授業で学んだことを日々の食事や生活習慣の改善に生かすことで健康を取り戻し、前向きになっていく様子を目の当たりにして、食と健康の科学の基本を教えることは大学の教育力向上につながるとても重要な役目であると感じました。RSSCでも受講生のみなさんの旺盛な学びと活動を支える一助になればという思いから、シニア向けに食と健康を科学的な視点で考えてもらう授業を展開しています。
「学び直しの場」として、また「人生後半の始発駅」としてRSSCを選んでいただいたご縁を大切にしながら、受講生のみなさんとともに明るく笑顔で元気に楽しく有意義に一年一年を過ごしていきたいと願っています。
新しい知識を得ることはとても楽しい瞬間です。もともと抱いていた疑問が解決されたり、別の知識とつながったりすると、さらに楽しいです。私の専門は化学です。日々、学生達と共に研究しています。予想外の実験結果が得られ、それが元々あった知識とつながったときは学生と、少々興奮気味に時間を忘れて話し込んでしまいます。一度でもその様な経験をしたら、もう研究から逃れられません。昨今の自然科学の研究は社会の役にたつことを求められますが、本来、基礎研究は研究者の知的好奇心のみによって進められるものです。自分の興味本位で楽しみながら研究して、その結果が社会の役に立つのならとても幸せ、くらいのスタンスがちょうど良いはずです。セカンドステージ大学には、何にも縛られず自由に学べる環境が整っています。本科ゼミでは、調査研究を楽しむことのお手伝いをさせて頂きます。自分の興味に基づいて自由奔放に学び、研究し、本気で楽しんでください。
国連の2030年目標であるSDGsが急速に浸透してきています。ブームと言ってもよいでしょう。思い返せば、私が高校生であった1972年、国連が初めての環境に関する国連人間環境会議を開催し、環境危機を訴え、環境保全が世界の潮流になるのではとの期待感すら生まれました。いわば、第一期の環境ブームです。
しかし、その後のオイルショックでブームはあっけなく去りました。12歳の少女、セバン・スズキさんがこのままでは未来はないと訴えた地球サミット(1992)は第二の環境ブームの象徴です。そして、グレタ・ツウェンベリさんが気候危機を訴える今はまさに第三の環境ブームです。しかし、これを第三のブームで終えてしまったら、それこそ私たちに未来はありません。三度目の正直、残された時間はありません。
国内においても持続可能な社会づくりに向けた様々な取り組みが実践されています。このような現場に学び、持続可能な社会づくりの実践に共に踏み出そうではありませんか。
新しい年度がはじまり、新しいゼミがはじまりました。ゼミの教員や仲間と仲良くなりましたか?
一期一会という言葉があります。世間であまりにも軽く使われている、いささか手あかのついた言葉で、あまり好きではないのですが、生きている限り、常に新しい出会いがあり、また別れもあるわけで、その意味、毎日が一期一会だと思っています。21世紀の今の時代を、地球のほんの片隅の日本で生をすごしている我々にとって、どんな人との出会いも一期一会です。私はさらに鳥や魚やどんな生きものも、地球の上で私といっしょに生を過ごしている仲間だと思っています。ゼミでの出会いとつながりを大切にしたいと思っています。
私のキャッチフレーズは「そこも地球の真ん中」。地球といっても、earthではなくglobeです。その違い、分かりますか。
大地を表すときはearth。一方、globeは球体・球面。地球儀は英語でglobe、「地球を旅して回る」はtravel around the globe
となります。地表のどこでもglobeの真ん中になり得るのです。自分がいま立っている「ここは地球の真ん中」、そして遠いところに住んでいる人に「そこも地球の真ん中です」と語りかけることができます。
セカンドステージ大学の受講生には、日頃から「あなたがいま立っているところ、これまでの人生で歩いてきたところが、すべて地球の真ん中になるんですよ」、そこを起点にして世界を見通し、歴史を掘り下げ、いっしょに汗を流す仲間を見つけてください、と語りかけるようにしています。私もこれまで世界を旅しながら、出会った人々から話を伺い、博物館や史跡を訪ね、そこで見つけた驚きを、文献や史料で肉付けながら研究を重ねてきました。ゼミナールでは地球を巡る受講生の知の旅を、お手伝いしています。
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」には、3人の兄弟が登場し、長兄のドミトリーは粗野で感情に支配される直情型の人間、次男イワンは冷徹な科学者、末っ子のアリョーシャは神様に使える無垢で敬虔なキリスト教者です。小説の結論は、末っ子が救われるのですが、私は常々、次男の科学者に共感を憶えて来ました。彼は、科学的真実以外、何も信じない。結果的には救いが見つからないから悲惨な結末となりますが、私はそれに怯まず、これまで無神論を通して来ました。しかし、もし神様がいらっしゃるなら、自分よりもはるかに尊い存在なのですから、その方を信じられないのなら、自分はもっと信じられないはずです。この不遜とも謙虚ともいえる姿勢を常に取り続け、これまで新しい分野に挑戦し、常識に挑戦しながら論文を書いています。学びを深めるということは、単に人の書いたものを鵜呑みにするのではなく、自ら納得できるまで考え抜く。それは1人では限界がある。そこにこそ、正しい道を共に切り開いてくれる、かけがえのない学友との交わりがあります。セカンドステージは、そんな素敵な機会に満ち溢れた「場」を提供してくれると思います。
ネオテニー(幼形成熟)という生物学用語があります。たとえば両生類は普通、幼体ではエラ呼吸し、成体になると変態して肺や皮膚で呼吸します。しかし一部の両生類は成体になってもエラが残って水中で生活します。このように、動物が未成熟な子どもの身体的、行動的特徴を残したままオトナになる現象がネオテニーです。実はわれわれヒトの身体や行動の成長過程にも、ネオテニーにあたる現象を見ることができます。行動面で顕著な例は〈学ぶ力〉です。子どもは日々めざましい吸収力で新しいことを学んでいきますが、こうした学習能力や学習意欲は、大人になっても消えてしまうことはありません。立教セカンドステージ大学で学ぶ方々は、ネオテニー概念の妥当性を示す好例なのかもしれません。ネオテニーという〈幸運〉に感謝しつつ、私も受講生の皆さんといっしょに学んでいこうと思います。みんなで〈永遠の子ども〉になろうではありませんか。